「親でもない、配偶者でもない、子でもない」
兄弟姉妹を亡くしたとき、その悲しみは周囲から見過ごされることがあります。
葬儀でも、周りの注目は親や配偶者に向かいがちです。
「大変だったね」という言葉は、遺された親や子どもへ向けられる。
兄弟姉妹として悲しんでいるあなたの悲しみは、どこかで後回しになる。
「私は子どもじゃないから、しっかりしないと」
「親の方が辛いはずだから、私が支えなければ」と、自分の悲しみを後回しにしてしまう方がいます。
でも、兄弟姉妹を失う悲しみは、深く、特別なものです。
兄弟姉妹という存在の特別さ
兄弟姉妹は、人生の中で最も長い時間を共有する存在になり得ます。
親との出会いは生まれたときから。
でも親はいつか先に逝く。
配偶者との出会いは大人になってから。
でも兄弟姉妹とは、幼少期からずっと一緒にいた。
同じ家で育ち、同じ食卓を囲み、同じ親の元で笑い、泣き、喧嘩した。
その記憶を共有している人が、世界からいなくなる。
兄弟姉妹は「同じ時代を生きた証人」でもあります。
あの頃の家族の話を、一緒に笑って話せた人。
子ども時代の自分を知っている人。
親の若い頃の姿を、同じように記憶している人。
その「証人」がいなくなることで、過去の一部が失われるような感覚が生まれます。
見過ごされがちな悲しみ
兄弟姉妹を亡くした悲しみが見過ごされやすい理由があります。
グリーフの支援は、親・配偶者・子どもへの喪失を中心に語られることが多く、兄弟姉妹の喪失は「グリーフの盲点」と呼ばれることがあります。
周囲からこんな言葉をかけられた方もいるかもしれません。
「お父さんお母さんの方が辛いよね」「まだ若いから立ち直れる」。
善意の言葉が、かえって傷つくことがある。
自分の悲しみを誰かに話そうとしても、「そんなに辛いの?」という反応が返ってきて、それ以上言えなくなってしまう。
孤独な悲しみになってしまうことがあります。
しかし、兄弟姉妹を亡くした悲しみに、「正しい深さ」はありません。
その人との関係がどれほど深かったか、それだけが悲しみの深さを決めます。
年齢が近い兄弟姉妹を亡くした場合
特に、自分と年齢が近い兄弟姉妹を亡くした場合、固有の恐怖が伴うことがあります。
「自分も同じ病気になるかもしれない」という不安。
「あの人より長く生きていいのか」という罪悪感。
「自分もいつか同じように」という死への意識。
同世代の兄弟姉妹を亡くすことは、自分自身の死を突きつけられる体験でもあります。
その怖さと悲しみが混在する中で、誰にも話せないまま抱え込んでいる方がいます。
喧嘩したまま、疎遠だったまま
兄弟姉妹との関係が複雑だった場合、悲しみはさらに複雑になります。
長年疎遠だった兄弟姉妹が突然亡くなった。
仲が悪いまま、最後まで和解できなかった。
言いたかったことが山ほどあったのに、言えないまま終わった。
そういう場合、悲しみに加えて、後悔と罪悪感が重なります。
「なぜ連絡しなかったのか」「あのとき仲直りしておけばよかった」「最後に一度だけ会っておけばよかった」。
しかしどんな関係であっても、その人はあなたの兄弟姉妹でした。
同じ時代を生きた、かけがえのない存在です。
同じ時代を生きた魂のつながり
兄弟姉妹を亡くした後、日常の中でふと感じることがあります。
子どもの頃よく聴いた曲が流れたとき、なぜかその人のことが浮かぶ。
実家を訪れたとき、その人の気配をどこかに感じる。
親の話をしているとき、その人がそこにいるような感覚がある。
それは、同じ時代を生きた魂同士のつながりが、今もそこに流れているからかもしれません。
同じ家で育った魂は、特別なつながりを持っています。
親から受け取った愛を、同じように受け取った存在。
同じ景色を見て育った存在。
そのつながりは、形が変わっても続いています。
兄弟姉妹を亡くした悲しみを、一人で抱え込まないでほしいと思います。
その悲しみは、見過ごされがちだけれど、確かに深いものです。
そして、その深さの中に、今も続いているつながりがあります。


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