ふと、笑ってしまった。
テレビを見ていて、誰かと話していて、子どもの様子を見ていて。
気づいたら笑っていた。
そして次の瞬間、胸にちくりとした痛みが走る。
「こんなときに笑っていいのか」
「あの人が亡くなったのに、笑える自分はおかしいのではないか」
「まだ悲しんでいなければならないのに」
大切な人を亡くした後、笑うたびに罪悪感を感じる方がいます。
楽しいと思う瞬間があるたびに、罪悪感が顔を出す。
その繰り返しの中で、だんだん笑えなくなっていく。
笑うことを、自分に許せなくなっていく。
この感覚は、どこから来るのでしょうか。
そして、本当に「笑ってはいけない」のでしょうか。
「笑ってはいけない」という感覚の正体
「悲しんでいるのに笑うのはおかしい」という感覚の背景には、「正しいグリーフのあり方」への思い込みがあります。
大切な人を亡くしたなら、ずっと悲しんでいるべきだ。
笑うのは、その人のことをもう気にしていない証拠だ。
早く立ち直るのは、愛が薄かったからだ——。
これらはすべて、グリーフに対する誤解です。
グリーフ研究において、死別後に笑いや喜びを感じることは、まったく正常なことです。
それどころか、グリーフの健全な回復プロセスの一部と考えられています。
笑いと悲しみは、共存できます。
その人のことを深く愛していながら、今日の出来事に笑うことができる。
それは矛盾ではありません。
愛は笑いを排除しないし、笑いは愛を否定しない。
笑えることと、悲しんでいることは、同時に存在できるのです。
笑うことへの罪悪感が示しているもの
笑うたびに罪悪感を感じるのは、その人をそれほど深く愛していたからです。
その人がいた世界と、いない世界の落差が大きければ大きいほど、いない世界で笑うことへの罪悪感も大きくなります。
罪悪感の深さは、愛の深さと比例しています。
だとすれば、笑うことへの罪悪感自体が、その人への愛の表れです。
あなたがその罪悪感を感じるのは、それほどその人を大切に思っていたからです。
ただ、その罪悪感をずっと抱えたまま笑えなくなっていくことが、果たしてその人の望むことかどうか。
それは、一度立ち止まって考えてみてほしいことです。
あの人は、今何を感じているか
日常の中に、ふと訪れる瞬間があります。
その人が好きだったメロディーが流れたとき、思わず口ずさんでいる自分がいる。
その人と一緒によく行った場所を通ったとき、なぜか温かい気持ちになる。
その人の口癖を思い出して、くすっと笑える瞬間がある。
その瞬間、罪悪感ではなく、温かさを感じることがあるかもしれません。
それは気のせいではありません。
その人があなたの笑顔を見て、喜んでいるのかもしれない。
見えない場所から、あなたの日常をそっと見守りながら、あなたが笑える瞬間を待っていたのかもしれない。
ミディアムシップのセッションの中で、旅立った方から届く言葉の中に、こういうものがあります。
「笑っているあなたを見るのが好きだった」
旅立った方たちは、残された人が笑えること、喜べることを、心から願っています。
笑うことは、その人への裏切りではない
「笑うことは、その人を忘れることではない」ということを、伝えたいと思います。
笑える瞬間があっても、その人への愛は変わらない。
楽しいと感じる時間があっても、その人のことを思う気持ちは消えない。
幸せを感じることができても、その人がいなくて寂しいという事実は変わらない。
笑いと悲しみは、奪い合わない。
笑えば悲しみが消えるわけでも、悲しんでいれば笑いが戻らなくなるわけでもない。
どちらも同時に、あなたの中に存在できます。
笑うことへの許可を、自分に与えてみてください。
その人が好きだったお笑い番組を見て笑っても、いい。
友人との会話で笑っても、いい。
子どもの笑顔につられて笑っても、いい。
その人のことを思い出して笑っても、いい。
その笑いは、その人への愛の延長線上にあります。
笑える自分を、大切にしてほしい
死別後に笑えた瞬間は、心が少し息をした瞬間です。
悲しみの重さの中で、心が小さな休憩を取れた瞬間です。
その休憩を、罪悪感で塗りつぶさないでほしいと思います。
その人はあなたの笑顔を知っていました。
あなたが笑うときの様子を、覚えています。
その笑顔が、今も変わらずそこにあることを、どこかで感じています。
あなたが笑えるとき、その人との間に何かが流れます。
悲しみとは違う、もっと温かい何かが。
それを感じ取れる瞬間が、少しずつ増えていくかもしれません。
笑ってはいけない、なんてことはありません。
あなたが笑えることを、その人は待っています。


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