映画『千と千尋の神隠し』は、多くの方が一度はご覧になったことがあるのではないでしょうか。
物語の中で主人公の千尋は、あるトンネルをくぐることで、普段とは異なる世界へと足を踏み入れます。
その世界には、人間の目には見えない存在たちが自然に生きており、そこには独自の秩序と法則があります。
そしてこの作品では、千尋が名前を一部奪われてしまう場面は印象的です。
この世界を案内してくれるハクという男の子から、千尋は「ここでは、仕事を持たないものは湯婆婆に動物にされてしまう」と警告されます。
ここでは生きるために食し、働くことが必須であり、働かない者は人間としての存在を許されず、豚などの動物に変えられてしまうという魔法の契約が支配しています。
そのため千尋は仕事をもらうために湯婆婆にもとへいきますが、契約書に署名したのち「今日からお前は千だ」と、千尋の名前の一部を剥がし名前を変えられてしまいます。
私たちはこの世に生を受けてこの名前というものを授かります。
人は名前がないと物の認識ができない、とされています。
草花も名前を知らないうちは雑草ですが、名前を知ると識別ができるようになり、愛でる気持ちになります。
動物にも個体別に名前をつけることで親近感がわきますから、ペットたちには個別の名前をつけます。
空の星も星座の名前を知らなければ、光の点でしかありません。
本日は、この「名前」というものに視点を当ててお話をしていきたいと思います。
それぞれの名前
物や場所の名前は単なる記号ではなく、自然環境、歴史、神話、言語、そして人間の営みが重なり合って生まれています。
名前をたどることで、その背後にある文化や価値観を知ることができ、私たちの世界の見え方も少し深まっていきます。
① 自然・地形に由来する名
サハラ砂漠/ナイル川/アムール川/グリーンランド/アイスランド
これらの名は、その土地の自然環境や見た目の印象から名付けられています。サハラはアラビア語で「砂漠」を意味し、そのまま広大な砂の世界を表現しています。ナイル川は古代文明の命を支えた大河であり、単なる川以上の意味を持ちます。アムール川は現地のトゥングース系言語で「大きな川」を意味する言葉が由来とされています。グリーンランドやアイスランドは探検時代の命名で、実際の環境だけでなく人を引き寄せる意図も含まれているといわれています。自然の名称には、人と環境との関係性がそのまま刻まれています。
② 歴史・人物に由来する名
アメリカ(アメリゴ・ヴェスプッチ)/コロンビア(コロンブス)/ワシントン/ボリビア(シモン・ボリバル)/マゼラン海峡
これらは歴史上の人物や探検家の名前に由来しています。大航海時代以降、新たに発見された土地にはその功績を称えて名前が付けられることが多くなりました。これは領土や発見を「記録する」という意味だけでなく、その時代の価値観、つまり功績や支配を重視する文化も反映しています。
③ 神話・宗教に由来する名
ジュピター(木星)/マーズ(火星)/ヴィーナス(金星)/アトラス山脈/エデン
これらは神話や宗教的概念から名付けられています。ローマ神話の神々の名前が惑星に使われているのは、古代の人々が天体を神聖な存在として捉えていたためです。アトラスは天空を支える巨人、エデンは楽園の象徴として語り継がれています。未知の存在や広大な自然に対して、人は神話という物語を重ね、理解しようとしてきました。
④ 言語・意味そのものに由来する名
サハラ(砂漠)/ヒマラヤ(雪の住処)/オーストラリア(南の土地)/パシフィック(平和な海)/アークティック(熊の地)
これらは、その言葉自体が意味を持ち、特徴を直接表現しています。ヒマラヤはサンスクリット語で「雪の住む場所」、パシフィックは「穏やかな海」という意味で、航海者の印象から名付けられました。オーストラリアは「南方の大地」を意味し、地理的認識がそのまま名称になっています。言語由来の名前は、その時代の認識や第一印象をストレートに反映している点が特徴です。
⑤ 文化・産業・時代背景に由来する名
シルクロード/ハリウッド/ウォール街/ゴールドコースト/シリコンバレー
これらは人々の活動や産業、時代の流れから生まれた名称です。シルクロードは交易路としての役割を示し、文化の交流を象徴しています。ハリウッドは映画産業の中心地として世界的に知られ、ウォール街は金融の象徴です。ゴールドコーストは観光や開発のイメージ、シリコンバレーはIT産業の発展と技術革新を象徴しています。これらの名前には、その時代に何が価値とされていたのかが明確に刻まれています。
名前とは囚われ
このように、名前をたどることでその背後にある文化や価値観を知ることができます。
私たち人は、名前があることで他と区別して物事を認識することができるのです。
私たちが生まれたときに授かる名前も他者と自分を比較する「私」という個を認識し、社会生活を通じてそのアイデンティティといった自己を確立していきます。
そして、家族や社会生活といった集団の中で生活していくにつれ、自分の名前の他に肩書という名前が加わり、この肩書という名もまた普段自分が何者であるかを定義するためにつかっています。
例えば役職。
名前に添えて、その人の社会的な地位、職務、学位、役割などを示し、信頼感や責任範囲を相手に示す役割を持ちます。
そして職業。
会社員、派遣社員、パート従業員、主婦、学生といった肩書は多くの人にとって分かりやすいです。その他にも社名や業種を用いる場合もあります。
そして性別。
男、女、そして、自分の性のあり方を決めない人、決めたくない人など性的マイノリティを総称する言葉として、LGBTQやLGBTQ+と表現することもあります。
このような、役職や職業や性別は、その人を説明するための一つの側面にすぎず、あくまで外側の役割であり、その人の価値観や人間性そのものを決定するものではありません。
私たちは社会の中で生きるうえで、職業や立場、性別といった枠組みを通して互いを認識し、関係を築いていますが、私たちの本質はこれらそのものではありません。
本質とは、そうした外的な条件を取り除いたときに残るものです。
どのように感じ、どのように考え、どのように他者と関わろうとするのか。
私たちの内側にある価値観や意識、選択の積み重ねこそが、本質に近い部分といえるでしょう。
外側のラベルに強くとらわれてしまうと、人を固定的に見てしまい、本来持っている多様性や可能性を見落としてしまうことがあります。
ラベルは、社会の中で必要な「機能」ではありますが、それがすべてではありません。
真の価値はその本質にある
この本質をうまく表現している作品があります。
シェイクスピアの作品『ロミオとジュリエット』では、真の価値は名前ではなくその本質にあるということを表現したシーンがあります。
『ロミオとジュリエット』は、イタリアのヴェローナで敵対する2つの名家(モンタギュー家とキャピュレット家)の若者二人の純粋で激しい愛と、それが社会的な規範や憎しみの連鎖によって悲劇的な結末を迎える儚さを描いた作品です。
ここでは、「ロミオとジュリエット」の有名なロマンチックなバルコニーのシーンの一部、ジュリエットのセリフをご紹介します。
ーーーあぁロミオ、ロミオ! どうして貴方は<わが一族の敵である>ロミオなの?貴方の父を否定し、名前を拒否してくださいな。お嫌ならば、私への愛を誓ってくだされば、私はもうキャピュレットではありませんわ。
ーーー私の敵なのは、貴方の名前だけ。貴方は貴方、モンタギューではなくても。モンタギューって何? 手ではないし、足でもないし、腕でも、顔でも、その他の体の部分でもない。あぁ、他の名前になって!名前には、何があるというの? 私たちがバラと呼ぶものは、他のどんな名前で呼んでも、同じように甘く香るわ。
ジュリエット
このセリフを読んで、シルバーバーチのこの言葉を思い出しました。
私は荒野に呼ばわる声です(※)。神の使徒以外の何者でもありません。私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは私のやっていることで判断していただきたい。
シルバーバーチの霊訓 第5巻一章
これはある日の交霊会でメンバーの一人がシルバーバーチの地上での身元について尋ねた時の答えです。
シルバーバーチがインディアンではないこと、本来の高遠の世界と地上との間の橋渡しとして一人のインディアンの幽体を使用しているところの、高級霊団の最高指揮者であるということまでは認知されています。
しかし、交霊会のメンバーが地上時代の実名を何度か尋ねても、一度もその名を明かしませんでした。
名を馳せるというように、自分の名前や評判が世間に広く知れ渡り、有名になればなるほど、その人物名そのものに実力や功績がつきます。
事実ではないですが、もしもシルバーバーチが地上時代イエスキリストだったと名乗ったら?
私たち人間はきっとまた崇拝し、銅像を建て、崇め奉ってしまうのではないでしょうか。
シルバーバーチが語るところの本質の部分を私たちはきっと見逃してしまうのではないでしょうか。
そして、それが本意ではないということをわかっていてきっとシルバーバーチは私たちに最後までその名を語らなかったのではないでしょうか。
本質は内部に宿る
冒頭で紹介した、映画『千と千尋の神隠し』に戻ります。
千尋の案内役ハクは、千尋に「湯婆婆は名を奪って支配するんだ」と言い、そして、「名を奪われると帰り道が分からなくなるんだ。私はどうしても思い出せないんだ。」と警告します。
そして、名前を失うことは、自分が何者であるかを見失うことを意味しています。
私たちはこの地上世界で肉体を持って生活しています。
3次元という制約的な世界で、衣食住を守り、仕事をし、そしてこの世界のものを食べないと、まるで千と千尋の世界のように私たちの肉体は消えて(死んで)しまいます。
そんな制約の中で、この「名前」にも囚われているのかもしれません。
しかし、ジュリエットが言うように私たちは、手ではないし、足でもないし、腕でも、顔でも、その他の体の部分でもありません。
そして、シルバーバーチが言うように、その人自身を私たちが一人ひとりがありのままに見ることができたらどうでしょうか?
私たちは時に名前に囚われますが、愛はその名前を超えてその人自身を変化させます。
名前ではなく魂の本質そのものを観る目をもったとき、私たちはきっと今と違う世界をこの目で見ることができるかもしれません。


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